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小田凱人(おだときと)さんは車いすテニスで世界の頂点を取りました。
しかも最年少で。
その原動力は何なのでしょうか。
そもそも小田凱人さんが車いすテニスを始めたのは何故なんでしょう。
名前をご両親はどんな思いでつけたのでしょうか。
調べてみようと思います。
一緒に見てみませんか。
小田凱人、車椅子テニスを始めたきっかけは?
小田凱人さんが車椅子生活になったのはいつからなんでしょう。
車椅子になったのは
小田凱人さんは、9歳の時「骨肉腫」を発症しました。
骨肉腫は骨に発生する悪性腫瘍(ガン)の中で最も頻度の高い代表的なガンです。
10歳代の思春期、すなわち中学生や高校生くらいの年齢に発生しやすい病気ですが、約3割は40歳代以上で発生します。
日本国内でこの病気に掛かる人は1年間に200人くらいであり、ガンの中では非常にまれな部類に入ります。
患者の約6割は膝の上下部分(大腿骨と脛骨の膝関節側)に腫瘍が発生し、次いで、上腕骨の型に近い部分、大腿骨の股関節に近い部分など、骨端線と呼ばれる骨が早く成長する部位(骨幹端部)に発生します。
腫瘍が大きくなるにつれて発生した骨が破壊されますが、腫瘍自体が骨を作るのが特徴です。
引用元:https://ganjoho.jp/public
左足の股関節と大腿骨の一部を切除。
人工関節にしました。
そのため、歩くことも困難になりました。
骨肉腫で他の骨に転移することも、肺に転移することもあるそうです。
なので小田さんの時は急いで原因の骨を切除したんでしょう。
転移していたら、テニスどころではないですから。
手術以降もかなりの痛みがあったようです。
そして何より大好きなサッカーができない事が辛かったようです。
サッカー少年だったんです。
小田さんは、本気でプロのサッカー選手を目指していたようなんです。
でも、何事もなかったら本当にプロのサッカー選手になっていたかもしれませんね。
憧れの人
小田凱人さんに希望を与えた憧れの存在は、皆さんよくご存知の”国枝慎吾”さんです。
パラリンピックで連覇を成し遂げた方です。
小田さんが国枝さんを観たのは「ロンドンパラリンピック」でした。
もちろんテレビの前ですが、圧倒されたそうです。
そこで小田さんは「車いすテニスで世界一になる」と決めました。
その日から、リハビリに励んで手術から半年で一時退院し、車椅子でラケットを振っていたそうです。
すごいポジティブというか、目標に向かって進んでいくことが天性のような感じを受けます。
国枝さんは、小田さんのことを「小田政権が長く続く」とコメントしています。
「生涯グランドスラム」を達成した国枝慎吾さんにこう言わせた小田凱人さんは、本当にすごいですね。
まだまだ若いし、国枝さんの記録を塗り替えるのではないでしょうか。
期待しています。
小田凱人、その強さの秘密
それにしても、小田凱人さんは、なんでこんなに強いんでしょうか。
名前の由来
小田凱人さんの名前は普通には読めません。
パソコンでも”ときと”と打ち込んでも出てきませんでした。
この名前は勝利への凱旋を意味していて、凱旋門からつけられたそうです。
この発想は面白いですね。
スポーツに関わっていた人の発想ですよね。
この名前は、凱人さんにとって誇りだったんではないでしょうか。
この名前に恥じない行動をしたいと無意識に思っていたかもしれません。
両親の想い
小田凱人さんのご両親が気持ちを込めてつけられた名前です。
その名前に恥じない素晴らしい選手になりました。
でも、スポーツ選手にしたかったんでしょうか。
サッカーが好きでプロまで考えていたということは、ご両親もサッカーをしていたのか、好きなのかでしょう。
勝利からの凱旋を思い描いていたんですよね。
そう考えると、病気になった時、本人が一番苦しいでしょうが、それを見ているだけの存在のご両親の苦痛も並大抵ではなかったと思います。
その時、思ったんではないでしょうか。
何故、”凱人”という名前をつけてしまったのか、と。
でも、この名前のお陰で凱人さんは車いすテニスの世界チャンピオンになれたんです。
例えどんな困難も、ご両親が思いを込めてつけたこの名前に負けまいと頑張るはずです。
小田凱人のまとめ
小田凱人さんは、努力の人ですね。
元は普通の体で動いていたのに突然、それを奪われてしまった時、どんな思いだったでしょう。
五体満足の私には想像はできても、実際に起こったことではないので、分からないのが本音です。
それをわずか9歳で経験したんです。
「神は乗り越えられない試練は与えない」という言葉をドラマで聞いた憶えがあります。
乗り越えてしまったんですね。
しかも世界で花咲かせたんです。
来年のパラリンピックはもうすぐです。
期待したいと思います。
ありがとうございました。
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